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その後は順調に数作ヒットを出し続け、今度は自作をプロデュースするようにもなった。第一弾としてMark XからFive Stars(ファイブ・スターズ)の“Ooh Shucks”をリリース、続いて自ら発掘したWilliam "Smokey" Robinson(スモーキー・ロビンソン)率いるMiracles(ミラクルズ)の“Got A Job”、Eddie Holland(エディ・ホーランド)、Brian Holland(ブライアン・ホーランド)等のリリースを手掛け、後にモータウンで素晴らしい活躍をすることになるこの3人の音楽家と出会ったのだった。
ゴーディーは作品へのコントロールを完全掌握するため、1959年自らのレーベルTamla(タムラ)を設立。レーベル名をDebbie Reynoldsの映画のタイトル“Tammy”にしたかったのだが、既に商標は取られており、Tamlaに落ち着く。最初のリリースはMarv Johnson(マーヴ・ジョンソン)の“Come To Me”、そして同年にリリースした“You Got What It Takes”がポップチャートのトップ10入りした。
ミラクルズの3作目“Bad Girl”は、ゴーディーが次に作ったレーベル「モータウン」からリリースされた。この作品もヒットし、モータウンは順調なスタートを切る。こうなると才能は向こうの方からやってくる。1960年まだ学生であったPrimettes(プライメッツ)というガールズグループがオーディションにきた。ゴーディーは彼女たちの才能をすぐに認めたが、彼女たちに卒業してからもう一度来るようにと伝えた。こうして翌1961年TamlaからデビューしたのがSupremes(シュプリームス)であった。
ゴーディー初のシングルポップチャート1位は、タレントショーで見つけたMarvelettes(マーヴェレッツ)が1961年に放った“Please Mr. Postman”。
アルバムのポップチャート1位は、オーディションにやってきたStevland Morris(スティーブランド・モリス)という盲目の少年によってもたらされた。ゴーディーは彼を見て「この少年はWonder(驚嘆)だ!」と叫び、これがそのまま彼の芸名となり、Little Stevie Wonder(リトル・スティービー・ワンダー)が誕生した。13才の時にライブ録音した“Fingertips, Part 2”がいきなりチャート1位へと駆け上がった。
Holland-Dozier-Holland(ホーランド=ドジャー=ホーランド)が初めて組んだのは、1963年にMartha & The Vandellas(マーサ・アンド・ザ・ヴァンデラス)の“Come And Get These Memories”の時で、“The Motown Sound”とクレジットされるようになった最初のレコードである。
モータウンを語る上で、スター以外にも需要な人達が存在する。それが彼らをバックで支えたFunk Brothers(ファンク・ブラザーズ)だ。60年代モータウンのレコーディングのほとんどに参加しており、彼らなくして「ザ・モータウン・サウンド」はあり得ない。
1965年もモータウンの快進撃は止まらなかった。ナンバー1に5曲を送り、それ以外にもトップ10に6曲、そして前年に作った新たなレーベルSoul(ソウル)からJr. Walker And The All Stars(ジュニア・ウォーカー・アンド・ザ・オール・スターズ)の“Shotgun”がインスト曲でありながら同レーベル初のトップ10入りした。
こうして1960年代モータウンは、チャートに曲を送り続けたが、この第一期モータウン終演ともいえる出来事があった。1968年、成功の立て役者でもあるホーランド=ドジャー=ホーランドがこのレーベルを去ったのである。その後もモータウンは数多くのヒット曲をリリースし続けたが、60年代のプロデューサー優先のサウンドから、70年代のアーティスト重視の方向へと向かい、新たな局面に入っていった。