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まずはパーカッショニストとして音楽の道に足を踏み入れる。アフロビートを取り入れた彼のスタイルは、Sonny Rollins(ソニー・ロリンズ)、Herbie Hancock(ハービー・ハンコック)、Freddie Hubbard(フレディ・ハバード)、Joe Henderson(ジョー・ヘンダーソン)等の大物達とのプレイを重ねたことにより洗練されていく。
そして出会ったのがMiles Davis(マイルス・デイビス)だ。1971年から1975年まで、この偉大なミュージシャンと演奏活動をともにするが、マイルスと出会ったことにより、ジャズ以外の音楽にも目覚めていく。
そこから生まれたのがマイルスのバンドでの同僚であり、後の相棒Reggie Lucas(レジー・ルーカス)とのコラボレイトだ。エムトゥーメは作曲とプロデュースに専念、Roberta Flack(ロバータ・フラック)とDonny Hathaway(ダニー・ハサウェイ)の“The Closer I Get To You”、“Back Together Again”、Phyllis Hyman(フィリス・ハイマン)の“You Know How To Love Me”、Stephanie Mills(ステファニー・ミルズ)の“What 'Cha Gonna Do With My Lovin’”等を手がける。
ソロとしても活動を開始、自らの血や文化をミックスした作品をルーカス、Jean Carne(ジーン・カーン)、Dee Dee Bridgewater(ディー・ディー・ブリッジウォーター)、Michael Henderson(マイケル・ヘンダーソン)らの協力を得て作り上げた。
1978年には自らのグループMtume(エムトゥーメ)でEPICと契約、“In Search Of The Rainbow Seekers”を発表。続いて1982年に出したのが名作“Juicy Fruit(ジューシー・フルーツ)”、商業的には大成功というほどでもなかったが、彼の名前がダンスフロアで響き渡るには十分だった。その後も数作エムトゥーメで制作したのち、グループを解消、ルーカスとのプロデュース生活に戻ってRoy Ayers(ロイ・エアーズ)の作品等を手がけた。
バンドとしてのエムトゥーメはEPICとのメジャーデビュー前にも、インディーズから3作リリースしており、1975年のライブ盤“Alkebu-Lan”は、アフロジャズの裏名盤として名高い。マイルスの影響はもちろんのこと(アフロリズムということではマイルスに影響も与えていた気もするが)、同時代のカーティス・メイフィールドやマーヴィン・ゲイ、ジェームス・ブラウン等の影響も垣間みられる。
アフロジャズからディスコまで、今では考えられないような活動の幅だった。