ソウル・クラシックスの大辞典を構築中! スマホ対応なので出先でもどうぞ。
「保育園落ちた、日本死ね」のニュースを見て、ふと思った。この母親が実は詩人で、下品な文章も狙って書いていたのなら、どれだけ素晴らしいかと。結果だけ見ていると、この手法はアートに近い。似たようなテーマはいくらでもあるだろうから、バンクシーがグラフィティでやったようなことを、この女性が、今後もいろんな人格を使い分けて、ネットに文章として書き続ければ、現代を象徴するようなアーティストになれるかもしれない。
音楽界で考えてみると、(日本では少ないが)海外には結構、悪態をついて社会を変えようとした人は存在する。一生をかけて戦い続けたアーティストなら、ニーナ・シモンの名前が一番最初に思い浮かぶ。
生まれて初めて聴いた彼女の曲は“Little Girl Blue”。美しいピアノの音と味わい深いヴォーカルが印象的なバラードで、後に知る彼女の実像とはかなり違うものだった。少し前の“DAZED”にドキュメンタリー映画『ニーナ・シモン 魂の歌(原題“What Happened, Miss Simone?”)』の記事があった。最初に聴いた感動と彼女の戦いを忘れないように、この記事を参考に彼女の人生を書き留めておく。
ニーナ・シモンは、もちろん素晴らしい音楽の才能の持ち主だが、単なる音楽家ではない。公民権運動の活動家であり、社会を挑発する存在であり、夫に虐待を受ける妻であり、娘に虐待をする母親でもあり、精神病を抱える一人の人間でもあった。
1933年、ノースカロライナ州生まれの彼女が、社会の矛盾についてステージ上で初めて抗議の姿勢を示したのは12歳の時。幼少期からピアノの才能を認められ、教会の伝道集会でも定期的に演奏をしていたニーナ・シモン。当時はクラシックを学んでおり、12歳になると初のピアノ演奏会を開くほどの腕前になっていた。しかし、1940年代のアメリカ南部は、悪名高い「ジム・クロウ法」という黒人差別の法律が存在していた。演奏会でのステージ前方の席には、優遇された白人の聴衆ばかりが占めており、主役である娘の両親は、ホールの後ろの方に座らされていた。この状況に耐えきれなかった12歳の少女は、両親の席をステージ前に変更することを要求。もし言うことを聞かないのなら、演奏はしないと宣言した。
「彼女は常に心の声に忠実でした」と『ニーナ・シモン 魂の歌』のプロデューサー、リズ・ガルバスは語る。彼女はこの頃から、権力に対して真実を語る大胆な人だったという。「そして一生を通じて、この姿勢を貫きました」。
彼女の曲に“Mississippi Goddam”という曲がある。1963年にミシシッピ州ジャクソンで白人至上主義者によって暗殺された公民権運動の黒人活動家メドガー・エバースと、アラバマ州の黒人教会に爆弾が仕掛けられ4人の子供が死亡した事件について歌ったものだ。明るい曲調とは対照的な過激な歌詞は、黒人によるプロテストソングの先駆けとなるものだった。差別に対する怒りを、これほどあからさまに、大衆音楽の中で表明した歌はほとんどなかった。サム・クックやマーヴィン・ゲイ、ジェームス・ブラウンのようなソウル界のオピニオン・リーダーが声を上げる前に、アウトサイダーともいえるニーナ・シモンが「ミシシッピよ、地獄へ落ちろ!」と社会に悪態をついたのだ。
気分屋で、狂気さえも感じる彼女の言動には、家族や周囲の人間も戸惑っていた。しかし、一番悩んでいたのは彼女自身だった。彼女の日記には、夫から暴力を受けていることや、日々自殺を考えていることなどが綴られていた。
ニーナ・シモンが双極性障害(俗に言う躁鬱病)であると診断されたのは、1980年代になってからのこと。両親の座席の変更を要求した12歳の時か、プロテストソングを歌い社会からバッシングを受けている時か、夫から暴力を受けていた時からか、今となっては、いつから彼女がこの病気を患っていたのかはよくわからない。
たとえ病気であっても、彼女が残した作品の価値は変わらない。むしろ、チャールストンで起きた黒人教会での白人青年による銃撃事件や、頻発する警官の黒人への暴行事件等、現代社会にも共通するメッセージは多い。
1970年代以降は、母国アメリカに幻滅し、バルバドスやスイス、オランダ、フランス等に居を移している。もしニーナ・シモンが生きていれば、1960年代と実質的にはほとんど変わらない今の祖国を見て、こう悪態をついているかもしれない。
「アメリカよ、地獄へ落ちろ!」
2016年3月29日