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先週の日曜日、ユーロヴィジョン・ソング・コンテストのウクライナ代表として、『1944』という曲を歌った女性シンガーJamalaが選出された。この曲の歌詞では1944年に起きたウクライナに対するソ連による侵略と、現在のクリミア半島の状況が重ねて歌われている。政治的内容の楽曲を好まないユーロヴィジョンでは異例のことだという。しかし、ウクライナの伝統として、これまでもポップソングを介してロシアへの抗議メッセージを伝えることは日常的に行われてきた。
米国でも政治的問題を扱うポップソングが話題となった。2月7日に開催されたアメリカンフットボールの頂点を決める試合「スーパーボウル」のハーフタイムショーにおけるビヨンセのパフォーマンスだ。その内容が黒人解放闘争を展開した「ブラックパンサー」を想起させるとして物議を醸した。
ユーロヴィジョンやスーパーボウルのような場では、政治的内容に触れるべきではない、という考えは理解できる。しかし、Jamalaとビヨンセは表現者だ。伝えたいメッセージがあれば自由に伝える権利がある。そして当然、その行為を非難する権利も反対者にはある。ただ、それだけのことだ。
ところが、日本のポップソングではメジャーなアーティストが自らの政治的考えを述べることは皆無に近い。もしそのような発言をすれば、そのアーティストはテレビ出演を自粛させられ、それでも発言を続ければ、メジャーな存在ではいられなくなる。
Jamala はプーチンに挑戦状を叩きつけた。ビヨンセはアフリカ系米国人に対する不当な扱いへの不満をパフォーマンスで表現した。日本のアーティストは、「がんばれ!がんばれ!」と歌うばかりで、他に伝えることはないのだろうか? 何も政治体制に反対しろと言っているわけではない。一人の表現者としてのバランスが悪すぎるのだ。(そもそも、これではアーティストと呼ぶことさえも憚られる。)
ポジティブなことしか言えない未成熟な日本の表現者。そろそろ大人になってもいいのではないだろうか?
2016年2月25日