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ホールも当初はナッシュビルのアーティスト達に曲を提供していたが、Sam Cooke(サム・クック)らの登場に刺激を受けていた彼は、ブラック・ミュージックへの思いがどんどん膨らんでいった。当時参画していた会社“Florence Alabama Music Enterprises”を解消したのをきっかけにマッスル・ショールズへと向かい、自身の事業の名前もその会社の頭文字から取りFAME(フェイム)とした。
栄光の「マッスル・ショールズ・サウンド」のスタートは貧相なものだった。たいした設備も無く、タバコ用の倉庫を借りるのが精一杯だった。しかしラッキーなことに、優れた才能を持つベルボーイとして働いていた青年に出会うことができた。こうして生まれたのがArthur Alexander(アーサー・アレクサンダー)の“You Better Move On(1961年、後にローリングストーンズがカバー)”のヒットであった。資金を得たリック・ホールはオンボロ倉庫を引き払い、スタジオ建設のために使った。この建物が、その後FAMEの本拠地として使われるようになった。
新スタジオでの初ヒット、Jimmy Hughes(ジミー・ヒューズ)の“Steal Away(1963年)”により、彼のR&Bプロデューサーとしての地位も固まり、今度は自分のイメージを現実化できる信頼のおけるスタジオ・ミュージシャンが必要となった。しかし、新スタジオやその機材のために資金を注ぎ込んでいたため、一流ミュージシャンを集めることができず、彼には自らが教師となり未完成のミュージシャンを育てる道しか残されていなかった。彼は何ヶ月もつきっきりでイメージを伝え、ミュージシャン側もホールのイメージを現実化するしか収入を得る方法が無いのがわかっていたので、必死に理解しようとした。
こうした努力が実ったのが、優秀なプロデューサーと強力なスタジオ・ミュージシャンにより完成した「マッスル・ショールズ・サウンド」であり、Aretha Franklin(アレサ・フランクリン)の2大ヒット“I Never Loved A Man”、“Do Right Woman, Do Right Man”や、Clarence Carter(クラレンス・カーター)の“Patches”、Wilson Pickett(ウィルソン・ピケット)の“Mustang Sally”、“Funky Broadway”、“The Land of 1000 Dances”等の歴史に残る作品の誕生となった。
特にアレサ・フランクリンは、あふれる才能がまだ開花していない時期に、プロデューサーのJerry Wexler(ジェリー・ウェクスラー)がフェイム・スタジオに連れて行き“I Never Loved a Man (the Way I Love You)”を録音したことにより、ソウルシンガーとしてのイメージを確立した。アレサの成功によって、ソウルの世界で成功したい女性シンガーたちが次々とマッスル・ショールズを訪れるようになった。
リック・ホールと契約でもめたジェリー・ウェクスラーが陰で糸を引き、フェイムのハウスバンド、Swampers(スワンパーズ)は独立し、マッスル・ショールズの音楽の聖地はふたつに分かれている。しかし、そこでも次々に魔法のようなサウンドは生まれ、ローリング・ストーンズも「ブラウン・シュガー」や「ワイルド・ホーセズ」等をレコーディングしている。
マッスル・ショールズ・サウンド誕生から、サザンロックへの流れは映画「黄金のメロディー マッスル・ショールズ」で詳しく語られている。