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1953年、バードがGospel Starlighters(ゴスペル・スターライターズ)というグループのリード・ヴォーカル兼ピアニストだったとき、ジェームズ・ブラウンには音楽的なキャリアはほとんどなかった。当時は当然バードの方が音楽的に立場が強く、彼がブラウンを誘い一緒に演ろうといい出したのだった。しかし、ここからブラウンはファンクの神への道を突き進む。音楽の傾向はすぐにJBの希望であるR&B寄りになり、バンドの名前も1956年にデビューを果たしたときには、James Brown and the Famous Flamesと改名されてしまった。このデビュー作“Please, Please, Please”(公式にはJames Brown & Johnny Terryの作になっているが、バードは自分がテリーと作ったと主張している)はヒットしたものの、バンドはうまくいくわけもなく、しばらくして解散した。
バードはブラウン抜きで残りのメンバーとバンドを再結成したが、これも成功には至らなかった。結局ジェームス・ブラウンと、新フェイマス・フレイムスを結成することになるのだが、この時点で完全にジェームス・ブラウンによる独裁体制のバンドになっていた。それからは生まれ変わったようにヒットを連発するようになり、1963年には出世作となる“Live at the Apollo”を発表。この年、ボビー・バードもKing(キング)傘下のFederal(フェデラル)からソロ・シングルを発表している。
80年代中盤にレアグルーブ・ブームがおこったとき、英国のDJ達が頻繁にプレイしたのが、この70年前後のシングルだ。JB'sとしてもジェームズ・ブラウンの黄金期ともいえる70年代に多大なる貢献をした。