ソウル・クラシックスの大辞典を構築中! スマホ対応なので出先でもどうぞ。
1970年代前半には、Harold Melvin & the Blue Notes(ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ)やO’Jays(オージェイズ)のようなソウルの名グループをフィラデルフィアはすでに輩出していたが、世界の音楽史にこの都市の名が刻み込まれるのは、ギャンブル&ハフの指揮のもと、スーパーハウスバンドMSFBの強烈なビートにより生み出されるディスコの原型が誕生してからだろう。フィリーソウルからディスコが誕生し、全ての人たちがこのダンスミュージックを聞くようになった。
これと同じような状況を、日本で生み出したのがイエロー・マジック・オーケストラだ。テクノの概念自体はすでにKraftwerk(クラフトワーク)等のドイツのグループに先を越されていたが、YMOの偉大な点は、ドイツのどのアーティストよりもポップであったこと。そして、それまでのコンピューター・ミュージックが陥りがちだった抽象的な表現に偏ることなく、誰もが体感できるダンスミュージックに徹していたことだ。日本人が、YMOほどの規模で、世界の音楽的潮流を変えた例は他にない。YMOがいたからテクノがダンスミュージックとしての市民権を世界中で得ることができ、日本の音楽シーンもテクノポリスとしてのイメージを得ることができた。そして、テクノポップもヒップホップ等と融合・突然変異を繰り返し、過去の音楽に終わらず、新たな文化を開拓し続けている。
フィラデルフィアで生まれたディスコの4つ打ちを極端なまでに進化させたのが、YMOのテクノポップでもある。感情表現豊かなフィリーソウルが、単調なディスコビートに乗り続け、消費され尽くした結果、ブラックミュージックは一度死んだ。しかし、そこで立ち止まらず、より無機的になり、新たなグルーヴを発見したYMOのテクノにより、ダンスミュージックは生まれ変わった。その後は、Afrika Bambaataa(アフリカ・バンバータ)やCameo(キャメオ)等が新しい解釈を加え、ブラックミュージックは息を吹き返す。
『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』により、世界の音楽市場での日本の立ち位置が決まり、ようやく音楽的な鎖国状態から脱する道が開けた。YMOがテクノを日本の民族音楽として定着させるとともに、次世代のアーティストも刺激して、テクノポリスとしての基盤を築いてくれたのだ。
Producer: 細野晴臣
1979年