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時代は1966年。人種差別を禁じる公民権法が成立して2年しか経っていない。そして、ロックの殿堂ということは、当然白人アーティストが主に出演する場所でもあり、オーティス・レディングは黒人として初めてブッキングされたアーティストだった。さらに場所はロサンゼルス。彼にとっては完全なアウェーでのライヴ・パフォーマンスだった。
それでも本作の中でオーティス・レディングは「このアルバムがこれまでで一番の作品になることを願っている」と語っている。つまり『ライヴ・アット・ウィスキー・ア・ゴー・ゴー』は単に彼の人気にあやかって死後リリースされたものではなく、この場所で作品として残す自信が彼にあり、レコーディングされたということだ。ライヴにBooker T. & the M.G.’sは関わっていないが、当時のオーティスにとっては、それは問題ではないということだろう。大きなイベントではM.G.’sがバックを務めていたが、普段はこのロードバンドを使っていたからだ。この“The Otis Redding Revue”の方が素顔の荒々しいオーティス・レディングを体験できる。(事実、この「荒々しさ」が生前にリリースできなかった理由の一つだった。この辺の経緯はサム・クックの“Live at the Harlem Square Club”とも似ている。)
貴重なのは、彼がアーティストとして急成長している時期に、比較的小さなハコであるウィスキー・ア・ゴー・ゴーのパフォーマンスが残っていたこと。そこできっと生のオーティスを(もしかすると生の黒人アーティストも)見たことのない白人聴衆と対峙した瞬間がこのライヴなのだ。オーディエンスを熱狂の渦に巻き込もうとする葛藤までもが記録されている。オーティスは、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーで人種の壁を越えようとしたのだ。神棚に飾っていいぐらいありがたいソウルの息吹がここには納められている。
1966年