ソウル・クラシックスの大辞典を構築中! スマホ対応なので出先でもどうぞ。
まだ学生であったTommy Couch、Mitchell Malouf、Wolf Stephensonの3人によって、その歴史は始まった。1967年には、ミシシッピ州ジャクソンにスタジオもオープンし、地元のアーティスト達の録音も始めた。カントリー・ブルース・シンガーMississippi Fred McDowell(ミシシッピ・フレッド・マクダウェル)がグラミーにノミネイトされるなどの成功はあったが、この頃の収入のほとんどは、スタジオを貸し出したり、コンサートのプロモートなどからくるものであった。
こうした逼迫した状況を変えたのは、1970年にやってきたニューオーリンズの有名プロデューサーWardell Quezergue(ワーデル・ケゼルグ)だった。彼は数人のミュージシャンを呼び寄せ、長時間に及ぶ録音に挑んだ。そうして生まれたのが、King Floyd(キング・フロイド)の“Groove Me”とJean Knight(ジーン・ナイト)の“Mr. Big Stuff”のメガヒットだった。しかし当初は、配給を頼むためAtlantic(アトランティック)とStax(スタックス)へ持ち込んだが、全く相手にされず、やむを得ずマラコは自身のレーベルChimneyville(チムニーヴィル)から“Groove Me”をリリースした。するとラジオから火がつき、レコードの売上げも快調に伸びていった。そして大ヒットの兆しが見えると、慌ててアトランティックが契約にやってきたという経緯があった。そうこうしているうちにスタックスも“Mr. Big Stuff”のリリースを決め、R&Bチャートで1位、ポップチャートでも2位という大ヒットに結びついた。
この成功を受け、アトランティックやスタックスの有名ミュージシャンがジャクソンを訪れるようになるが、マラコが自立するきっかけとなったのが、1976年、Dorothy Moore(ドロシー・ムーア)“Misty Blue”の大ヒットだ。それまでヒットが続かず苦しい経営状態だったが、ドロシー・ムーアのヒット作のおかげで一気に持ち直すことができた。
Z.Z. Hill(Z.Z.ヒル)、Denise LaSalle(デニス・ラサール)、Latimore(ラティモア)、Bobby Blue Bland(ボビー・ブルー・ブランド)、そしてスタックスから迎えたJohnnie Taylor(ジョニー・テイラー)等が、着実なセールスを上げ、70年代以降のブラックミュージック界を支えていった。
幾度かの浮き沈みはあったものの、ゴスペルやブルースなど、大手があまり力を入れない分野にも活路を見い出し、現在では「ラスト・ソウル・カンパニー」と呼ばれるほどの伝説的レーベルとなっている。