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彼女はLittle Milton(リトル・ミルトン)のバンドでピアニストとしてプレイしていたが、ミルトンが遅れてこなかった時に、バンドリーダーであるOliver Sain(オリバー・セイン)に頼まれ、ヴォーカルを担当。これが、きっかけとなりミルトンとセインは仲違いし、フォンテラ・バスはセインのバンドで活動することになる。その後Ike Turner(アイク・ターナー)に認められ、数作レコードを録音するが、大きな成功はなかった。
活動の場をシカゴに移してからフォンテラ・バスの成功は始まる。名門Chess Records(チェス・レコーズ)と契約し、かつてセインのバンドで活動をともにしたBobby McClure(ボビー・マクルーア)とのデュエット作を発表。“Don't Mess Up a Good Thing”(全米33位・1965年)が、彼女にとって初めてのヒット作となった。この成功をきっかけに、それまでリース契約だったものを本契約に変更し、ソロ・デビューすることとなった。こうして完成したのが、Billy Davis(ビリー・デイヴィス)プロデュースによる“Rescue Me”(全米4位・全英11位、1965年)だ。この作品ではMinnie Riperton(ミニー・リパートン)がバックヴォーカル、Maurice White(モーリス・ホワイト。後のアース・ウインド&ファイアーのリーダー)がドラムを務めていた。曲終盤のハミングのコール&レスポンスは、実は歌詞を忘れてしまい、咄嗟に子どもの時に体験した教会のゴスペルが思い浮かび、歌い続け、そのまま使われたという。
「フォンテラ・バス」=「レスキュー・ミー」というイメージだが、彼女はこの後、さらにすごい作品を残している。
それはArt Ensemble of Chicago(アート・アンサンブル・オブ・シカゴ)の“Theme De YoYo(1970年)”だ。この前衛ジャズ集団の中で、フォンテラ・バスは非常にソウルフルなヴォーカルを聞かしてくれる。この作品はソウルやジャズのカルトクラッシックとして知られている。ちなみにアート・アンサンブル・オブ・シカゴのトランペットLester Bowie(レスター・ボウイ)は彼女の夫。
最近ではCinematic Orchestra(シネマティック・オーケストラ)の“Everyday(2002年)”にゲスト参加し、健在ぶりを示した(これがまた凄い)。しかし残念ながら2012年に死去している。