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ソウル&ファンク大辞典

ソウル・クラシックスの大辞典を構築中! スマホ対応なので出先でもどうぞ。

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Sly & the Family Stone

時代に翻弄されたファンク・ヒーロー

スライ&ザファミリーストーン Stand!,
Sly & the Family Stone,
1969
スライ&ザ・ファミリー・ストーンの頭脳、スライ・ストーン(本名Sylvester Stewart)は、テキサス州の極普通の中流家庭に生まれた。家は音楽に溢れており、子どもの頃には、すでに兄弟とゴスペルグループを結成し、レコードも出している。

10代までにピアノ、ギター、ベース、ドラム等をマスターし、高校時代には、白人・黒人・アジア人混成のドゥーワップバンドを組んでいる。後に、この人種混成ぐあいが気に入り、ファミリー・ストーンのアイデアの元になったと話している。

60年代の中期にストーンは、ヒッピー文化の中心地サンフランシスコでDJとしても活動。ソウル専門のラジオ局KSOLで彼は、白人のビートルズやローリングストーンズの曲もかけ、偏見のない幅広い音楽性で人気DJとなっていった。ちなみに彼が自分の局のことを、K-SOULと名付け、その後もこのソウル専門局の愛称となった。

ミュージシャンとして、それまでバンドやソロでいくつかの作品を発表してきたが、DJのようにうまくはいかなかった。しかし、サンフランシスコ独特の文化、あらゆる種類の民族・音楽、そしてルーツであるブラックミュージックへの深い知識が、彼を次の高みへと導こうとしていた。スライ&ザ・ファミリー・ストーンの結成だ。

1967年、60年代ソウルに新たな解釈を加えた“A Whole New Thing(邦題:新しい世界)”を発表。売上げ的には成功とは言い難いが、業界で注目を集めるには十分の内容だった。ブレイクしたのは翌年発表のシングル“Dance to the Music”だ。全米チャート8位の大ヒットとなり、彼らのサイケデリック・ソウルが新しい時代の幕を開けた。

アルバムとしてブレイクしたのは4作目の“Stand!(1969年)”。先行リリースされた“Everyday People”は、全米チャート1位となり、アルバムも13位にまで上昇した。それまでブラックミュージックのライブに、白人が押しかけることはあまりなかったが、彼らの音楽は、人種の壁を越えて受け入れられた。そして、この年に出演した伝説のロック・フェスティバル、ウッドストックが彼らの人気を決定づけた。

Sly and the Family Stone There's a Riot Goin' On,
Sly & the Family Stone,
1971
その後も彼らはさらなる高みへと上っていく。1971年の“There’s a Riot Goin’ On(邦題:暴動)”では、それまでのハッピーな高揚感は影を潜め、社会の暗部を表現したサウンドが前面に出ている。当時、メンバー間は不仲になり、顔を合わせないようにするため、当時としてはめずらしい多重録音が多用されたという。スライはあらゆる楽器とヴォーカルを担当し、ドラムマシンも使われた。それが結果として、このバンドの最高傑作を生み出すことになったのだ。

70年代最高のファンクバンドと称賛されるスライ&ザ・ファミリー・ストーンだが、その代償は高かった。彼らの魅力である、多様な文化背景を持つ人種混成バンドであることが裏目に出たのだ。当時、黒人解放闘争を展開していた組織、ブラックパンサーから圧力を受けたのだ。もっと黒人であることを前面に出すよう強要されたスライは精神的にズタズタになり、ドラッグに溺れるようになる。

伝説のバンド、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの実質的なピークは4年あまりと非常に短いものだった。






Dance to the Music - Sly & The Family Stone
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