神はどこに存在するのか
犬はいつもそこにいる。
何も要求せずただそこにいる。
人の温もりを感じればクッションを持参して車座の一員となる(ウチの場合)。
犬と暮らせば、誰もが神を感じる瞬間があるだろう。
映画『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』に登場する主人公は、大スターとしてのオーラを脱ぎ捨てていた。教会ライヴ以外の場面では、見慣れた派手派手アレサだが、本番が始まると、目を閉じ、意識を集中し、いつものアレサは消えていく。彼女が集中している対象は、きっと観客ではない。神だ。アレサはすぐ隣にいる神の気配を感じている。
アレサが歌うゴスペルは、多くの宗教が囚われるような、権威主義とは関係ない。彼女が歌えば万物が神と同等の存在となり、ゴスペルになってしまう。その最たる例が、ライヴで収録されたキャロル・キングの“You’ve Got a Friend”と、ゴスペルの名曲“Precious Lord, Take Me Hand”のメドレーだ。キャロル・キングは、辛い出来事があったときに、ただ寄り添ってくれる友人の存在をポップソングとしてしたためた。アレサはそこに神の存在を感じたようだ。
ゴスペルではよく「神はそこにいる」と歌われる。聖書の中や天上界のような特別の場所ではなく、我々が休むベッドの脇や、コーヒーカップ片手に一服する場に神は存在する。友人のように、すぐ隣にいる。
当時、すでにスーパースターの座を手に入れ、自らが神格化されていたアレサ・フランクリンは、何か矛盾を感じていたに違いない。そして本来の姿を世界にさらけ出すために、この映画の撮影に挑んだのではないだろうか。彼女は神ではない。ただ福音を伝える媒介者に過ぎない。
ゴスペルには、ある意味、今のエンターテイメントと共通する要素が多く含まれている。教会の壇上は、ステージであり、信者(観客)は壇上からのメッセージを今か今かと待っている。両者のコミュニケーションは、コール・アンド・レスポンスとしてはかられる。信者の中には神が憑依するものも出てくる。コンサートでもファンが失神することはよく起きる。
しかし、エンターテイメントは形骸化してしまった。アーティストが神格化されるようになったからだ。マネージメントは、アーティストが神ではないことを知っているのに、まるで神であるかのように演出する。ファンはただ盲従し、疑うことを知らない。そしてさまざまなマーケティング・ツールを通してお布施を納める。(この映画は、エンターテイメントの原初的姿を記録した作品であるともいえる。)
映画『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』は、神を扱った作品であるにも関わらず、むしろアレサ・フランクリンの人間宣言とも受け取れる。彼女は神の存在を感じることはできるが、神自身ではない。ポップスターとしての虚飾を一度この映画で脱ぎ捨てたのだ。父親を称え、師と仰ぐクララ・ウォードを招いて、ただ歌が大好きだった少女の頃のようにゴスペルと向き合う姿を映像として記録させた。
神は音楽に宿る。パフォーマーとオーディエンスはむしろ同じ立場であり、音楽を通してともに神の存在を感じるのだ。アレサ・フランクリンはそれを身をもって証明した。我々はラッキーなことに、1972年1月13日、14日のニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会にいなくても、映画を通して擬似体験できる。
神は高みからやってくるのではない。向き合えばいつもそこにいる。キャロル・キングはいつでも神の存在を確認できるように、それをポップソングとしてそっと我々のそばに置いてくれた。アレサ・フランクリンは映画『アメイジング・グレイス』を残してくれた。犬は寝ているだけで、神の気配を教えてくれる。
DOG bless you.
撮影:シドニー・ポラック
1972年