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令和時代の『堕落論』


平成という時代は、自らの意志で終える決意をした。明治になって天皇制は大きく変わり、一世一元、天皇陛下の崩御をもって、新たな元号が用いられるようになったが、長い歴史の文脈上に生きる第125代天皇は、ほんの少しだけ時間軸を広くとって考えたのだろう。明治以前には、天皇が変わるタイミング以外でも、吉事や逆に災害をきっかけに改元が行われてきたため、天皇の歴史からみれば、退位は特段変わったことではない。むしろ細かいルールに縛られることなく、大きな時代の流れと共に歩み、おおらかな決断を下したのだ。

歴史上、意志を持った改元の場合、なんらかの意味が込められることが多い。今回、退位を決断した時点の真意を知ることは、一般人には不可能だが、平成には阪神淡路大震災と東日本大震災という二つの大地震をはじめ、多くの地震・洪水等の天災が発生した。東日本大震災には福島第一原子力発電所事故という取り返しのつかないメガ人災まで伴った。またオウム真理教による地下鉄サリン事件という史上稀に見るテロによる悲劇も発生している。

国民はこうした災害・事件の被災者(被害者)を救うために、団結し「絆」を訴えるようになった。これ自体は何も悪いことではないのだが、「絆」はいつしか汚してはならない日本人的特質のように捉えられ、日本人は何か特別な尊い存在であるかのように、日本人自身が考えるようになった。国全体が潔癖症になり、周囲の目ばかりを気にするようになり、政府に異議を唱えるもの、法に触れる行為をしたものは、社会から抹殺されて当然であるという声もよく聞こえるようになった。

第二次世界大戦直後に出版された坂口安吾の『堕落論』には、こう記されている。「元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。……生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。日本戦史は武士道の戦史よりも権謀術数の戦史であり、歴史の証明にまつよりも自我の本心を見つめることによって歴史のカラクリを知り得るであろう。……古の武人は武士道によって自らの又部下達の弱点を抑える必要があった」。

天皇制については「極めて日本的な(従って或いは独創的な)政治的作品を見るのである」と語る。そして「天皇制は天皇によって生み出されたものではない。……その存立の政治的理由はいわば政治家達の嗅覚によるもので、彼等は日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。それは天皇家に限るものではない。代り得るものならば、孔子家でも釈迦家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代り得なかっただけである」と続く。

坂口安吾は「天皇制」も「武士道」も同種であるという。元来、楽天的で根に持つことの少ない日本人を奮い立たすためには何か純粋で文句のつけようがない「政治的作品」が必要だった。天皇の祖先は神であり、現代でもよく引用される新渡戸稲造の『武士道』は、そもそも明治時代に海外向けに英語で書かれたものだ。これもおそらく過去のサムライ魂を神話化するための書物と考えた方が自然だろう。その点において『古事記』や『日本書紀』と『武士道』は同類だといえる。

天皇は現在でも存在するし、武士もかつて実在した。しかし、神話はあくまでも神話である。神話の中の存在は、現実にはいない。神話を現実であるかのように崇拝する神話原理主義が、真実の姿を歪曲してしまうのだ。

『堕落論』は次のように結ぶ。

「戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

……だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局……武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが……自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である」

過去の出来事を神話化し、語り継ぐことにも意義はある。問題は神話が現実であるかのように(時には意図的に)錯覚することなのだ。重要なのは、過去に囚われすぎないで、今に生きることだ。

原理主義のような極端な美しさを求める傾向は平成の終幕とともに静まり、令和には、安吾が言う「楽天性」を取り戻し、もう少しルーズな世界になることを願う。

「生きよ堕ちよ」。堕落を忌み嫌わず、まずは受け入れること。そこから新たな一歩は始まる。



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