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『ガリヴァー旅行記』ジョナサン・スウィフト


とにかくこの男は懲りない。子供も読む本なだけに結構楽しげな調子で物語は進行するが、ガリヴァーは毎回毎回かなり酷い目にあっている。それなのに、母国に戻るとまた能天気なロシアンルーレットのような運任せの旅を繰り返す。


『ガリヴァー旅行記』が初めて出版されたのは1726年。当時はまだフランス革命も起きておらず、アメリカ独立宣言も数十年後のこと。イギリスは立憲君主制が定着し、産業革命の歯車が本格的に動き出そうとしていた。イギリスは世界の王様だったのだ。


こうした状況を背景に、ガリヴァーも旅先ではイギリス人としてのプライドと能天気さを所々でみせる。表面上では漂流先の国の支配者に敬意を示すが、心の底ではどこかなめているように映る。どこに行っても奴隷のような扱いを受けることはない。きっと当時の進歩した文明下に生きるイギリス人なら当然のことだったのかもしれない。行く先々ではそれなりに丁重な扱いを受けている。それでもガリヴァーが満足することはない。どこまでもいっても、イギリス人としては耐えられない支配される側であり、「よそもの」であることから脱することはできなかったからだ。


これは作者ジョナサン・スイフト自身の姿が影響しているのかもしれない。イギリス系アイルランド人の彼は、当時の国籍としてはイギリスに属するのだろうが、常に支配されるアイルランド人としての枠から逃れることはできなかった。何度もロンドンでの成功を試みてきたが、その度に跳ね返され、アイルランドに戻っている。


ガリヴァーのプライドの高さは、当時のイギリス人そのものなのだろう。イギリス人が海外に出るということは、自己の価値観(=宗教観)を現地民族に植え付け、最終的には支配してしまうことだった。


童話としての『ガリヴァー旅行記』は、第一編「リリパット国」の小人の話と続く第二編巨人の国まででほとんどが終わってしまう。しかし、この物語が本領を発揮するのは激動の第三遍を通過した後の、最終編「フウイヌム国」の逸話であろう。第三遍までは、囚われの身になっても相手は人間の姿をした共通の価値観を持つ存在だった。ところがフウイヌム国を支配しているのは馬だったのだ。「ヤフー」という人間のような生き物もいるにはいるが、毛深く汚らしい存在として描かれており、ガリヴァーは「ヤフー」と同一視されることを最後まで拒み、むしろ自らの存在を馬に近づけようとさえする。「人間」は「ヤフー」とは違い、どれだけ偉大で知恵があるのかを、ガリヴァーは一生懸命説明しようとするが、逆に馬からヤフーにも劣る人間の愚かさを指摘されてしまう。


最終章は子供が読んだらオネショを漏らしてしまうような内容なのだ。「イギリス人」としてのアイデンティティを確立できなかったスウィフトの姿とも重なる。第一編と二編では「ガリヴァー=イギリス人」の物語だったものが、第三遍でガリヴァーとスウィフトの人格が融合し出し、物語の最後ではスウィフトそのものになっているように感じる。


正直『ガリヴァー旅行記』の大半は、前時代的価値観で占められている。しかしこの個人に立ち戻る衝撃の最終章があるからこそ、第一級の普遍的風刺小説として成立しているのだろう。

(2021年4月8日)




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映画「ガリバー旅行記」予告編



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