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「表現の自由」vs「電凸軍団」

残念なことに、「美しい国」の文化庁は「電凸&脅迫」側を間接的に支援することにしたようだ。脅迫を受けた側は、国からの補助金を不交付にされた。そして、これからは国からのお墨付きを得た作品以外では、補助金を活用した展覧会を開催できなくなるようだ。もしコソコソ書類をごまかして開催までこぎつけても、「電凸軍団」の餌食になり、結果としてそれが国の知るところとなれば補助金はストップされるだろう。これにより政府は、電凸軍団の力を得て、どこかの独裁国家のような密告システムを構築したことになる。


最近では、極端なまでに政治性を排除した作品を『Jアート』と呼ぶらしい。ある意味、徹底的に何かを排除することは、それ自体がアートだとも言えるが、大多数の日本人芸術家にとっては侮辱にも近い名称だ。芸術に必ずしも政治的メッセージを込める必要はないが、ある一定年齢を超えた大人なら政治に対して何らかの意見を持つのは当たり前のことだ。政治問題だけをいつも避けて通るのはあまりにも不自然である。ましてや現在のように国の形が変わろうとしている時代ならなおさらだ。あいちトリエンナーレに出品しているアーティストの多くは芸術家であり、クライアントの意見を聞いて作品を納品する提灯持ち的商業芸術家ではないだろう。だが、これからは国が補助金を出すイベントの場合、クライアントである国の顔色を伺いながら、芸術活動をすることが強いられる。今回の一件で、ますます『Jアート』化の勢いは強くなるだろう。慰安婦を象徴する少女像や、天皇陛下の写真を燃やすことは、御法度であることがはっきりした。万引きもダメかもしれない。同じ政治性を帯びたモチーフでも、来年の東京五輪での持ち込みが許可された旭日旗ならOKかもしれない。


民間ではこれからもなんとか「表現の不自由展」のようなイベントを開催する方法を模索してゆくだろう。ここについては(現時点では)政府も関与することはできない。しかし、公的資金が入るイベントは別だ。政府にとって不都合な作品を排除するには、一度は笑顔で予算をつけ、開催後に不交付の決定を下し、主催者にダメージを与える今回の方法が最も有効な戦略なのかもしれない。


名古屋市の河村市長は「どう考えても日本国民の心を踏みにじるものだ。税金を使ってやるべきものではない」と語っているが、そもそもアートをテーマにして、全国民のご機嫌を伺うなんて不可能なのだ。文化庁も河村市長もアートを語るには、あまりにも幼すぎる。


世界の中の日本のアート市場は、驚くほど小さい。これはシステムの問題が大きいとは思うが、アーティスト側の問題としては一部の大物、または伝統やポップカルチャーに頼りすぎて、一個人として世界を震わすほどのメッセージ力が足りないからではないか。世界に視野を広げれば『Jアート』への需要はそれほどあるようには思えないし、こんな名称がついた後では海外のコレクターにとっても興味の対象からどんどん外れていくだろう。日本はもしかするとアート市場が大きく、政府への批判が極端なまでに封じられている中国のようなスタイルを目指しているのかもしれない。この点において中国と日本は「完全に一致」している。(サンドウィッチマンの伊達、どうしてあのネタやらなくなったの?)


今後は政府の援助には目もくれないような「ナチュラル・ボーン・アーティスト」が日本を飛び越えて、世界で活躍することを期待するしかない。



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