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シン・エヴァンゲリオン劇場版

ド素人による「シン・エヴァンゲリオン」雑感


我輩はド素人である。まだテレビ版は見たことがない。最初の2、3話は見たのだが、正直のめり込めなかった。それから何年かして、なんとなくAmazon Primeで「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」を見てみた。まあまあ面白かった。すぐに「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を続けて見た。それぞれのキャラクターに対する自分なりの「エヴァ観」が生まれてきたような気がした。その勢いのまま「シン・エヴァンゲリオン」を見に映画館に向かった。「序」を見てからまだ1ヶ月も経過していない。完全なる「エヴァ・ビギナー」としての映画体験だった。


やられた。「シン・エヴァンゲリオン」はこれまでの「ヱヴァ」とは別物だった。以前の映画作品もアニメとしては異端の存在であるものの、アニメの範疇からは出ていなかった。ところが「シン・エヴァンゲリオン」はアニメという枠を超えた本物の映画だった。(鑑賞者によって見どころは異なるだろうが)碇ゲンドウと碇シンジという親子の人格を使った「一人の男」の赤裸々な告白に直面させられたような感覚に囚われた。なんせ「エヴァ・ビギナー」なもので庵野秀明がどういう人物なのかはよく知らないが、普通この作品を見た人なら、監督の人格と映画のストーリーを重ねてしまう。数々の勇敢な戦闘シーンはあくまでオマケで、本質は情けない男の半生記のようにうつった。


現代の社会情勢を鑑みると「シン・エヴァンゲリオン」の設定は恐ろしいまでに時代錯誤だ。碇シンジの周りには(もしかすると映画の隅から隅まで)愛に満ちた優しい女性しか登場しない。まるで天上界のようだ。厳しい言葉をかけ続ける式波・アスカ・ラングレーでさえ、愛あってこその叱咤だ。それぞれの女性は強い意志を持っているが、これも映画だからこそ通用する設定であり、現実でそんなことはありえない。そんな強い女性だらけの中で、碇ゲンドウは情けない男の象徴だ。このヨワヨワ&強面男は、自我の崩壊を避けるために「綾波レイ」という存在を生み出した。綾波レイは命令者のフラストレーションを一気に引き受け、絶対に拒むことはない。いわゆる「オタク」と呼ばれる人たちに圧倒的支持を得たのは、綾波レイに理想をみたからだろう(と今更ながら思った)。フィギュアとなってコモディティ化された綾波レイには、更なる男の妄想が極限にまで詰め込まれている。


それでも「シン・エヴァンゲリオン」は名作なのだ。ロボットや最新デザインの衣を纏い、宗教・神話を用いて、「ハイテク&哲学」っぽく女性コンプレックスを描いて何が悪い。「シン・エヴァ」はアニメを超えた一級の映画作品だ。観客は映画館という名の懺悔室に閉じ込められ、監督の吐露と武勇伝を同時に聞かされる。しかもこの告白には屁理屈が満載で、一瞬で全てを理解できない言葉を故意に散りばめて懺悔が続く。隅から隅まで理解しようとするならば、何度も懺悔室を訪れる以外に方法はない。


「シン・エヴァンゲリオン」は、飽和したアニメ界の状況に「フォース・インパクト」を与え、破壊しようとした意欲的作品といえよう。奇しくも「シン・エヴァ」という呼び名は、破壊と創造をもたらす「シヴァ」神のようでもある。物語のエンディングはもはやどうでもよい。一人の男のコンプレックスというミクロな世界を、神聖な地球の未来という壮大なマクロのオブラートで包んで木っ端微塵にしたかったのだろう。


「14歳のパイロット」のまま長年この作品を愛し続けてきた人たちはショックを受けたかもしれない。しかし、作品成立当時に庵野秀明の中に存在したであろう14歳の碇シンジは、もうどこにも存在しない。「エヴァンゲリオン」という超大作は、ファンにとって「フォース・インパクト」よりも恐ろしい「ハッピーエンド」という劇薬で自らの命を絶ったのだ。


総監督:庵野秀明
2021年


公式サイト

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