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森村泰昌:エゴオブスクラ東京2020―さまよえるニッポンの私


「いかにもこの都市は中心をもっている。だがその中心は空虚である。」
「表徴の帝国」ロラン・バルト


原美術館で開催中の「森村泰昌:エゴオブスクラ東京2020-さまよえるニッポンの私」展は、森村が主演・脚本を手掛けた映像作品『エゴオブスクラ』を中心に、関連する作品がいくつか展示されている。その映像作品の中で引用されたのが、冒頭の東京について考察したロラン・バルトの一節だ。


かつて江戸は中心に実体のある為政者を据え、その周囲に住む人々の意識は常に中心に向かっていた。江戸は渦巻きのように続く運河とともに次第にとてつもないほど巨大化していった。明治になると政治の主体は変化したが、都市の機能は維持し続け、第二次世界大戦敗戦までこの状態は続く。


終戦とともに日本は米国の支配下に置かれる。東京の中心に居を構える住人は戦前と変わらないが、この時点からその人物は「実体ある為政者」から、バルトの言葉を借りるなら「表徴」へと変わった。東京、そして日本の中心が巨大な森の中へ飲み込まれていったのだ。


『エゴオブスクラ』で森村の姿は、明治天皇、昭和天皇とマッカーサー、三島由紀夫等へと変化してゆく(三島の姿を借りた森村のメッセージには血気迫るものがあった)。それぞれの時代背景を振り返り、当事者の思想をハッキングし、森村の思想ウイルスを感染させ、現代に蘇らせる。作品の中で彼は「真理や価値や思想というものは(中略)いくらでも自由に着替えることができるのだ」と宣言する。森村の変身は、実際には存在しなかった(もしくは実現できなかった)日本のパラレルワールドと考えることができる。


「空虚」であることは、別に否定的な意味を持つわけではない。全てに意味を求める欧米とは違い、神話に慣らされた日本には『エゴオブスクラ(闇に包まれた曖昧な自我)』が東京の中心に存在するだけの話だ。それは、東京(または日本)の宿命といえる。


日本という国は「闇に包まれた曖昧な自我」が中心に存在するため、外部からその実体を捉えることは難しいかもしれない。それはまるで皇居の深い森の中で、皇族が何をしているのか我々日本人でさえ何も知らないのと同じだ。個々の日本人にとっても、自分自身の中心に何が存在するのか自覚するものは少ない。「森村泰昌:エゴオブスクラ東京2020-さまよえるニッポンの私」展は、それを考えるいいきっかけを与えてくれた。


それでは、硬い文章になったので、やっぱり締めの言葉はこれしかないでしょ。
「バンザイ! バンザイ! マンザイ!」

(2020年3月19日)




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Yasumasa Morimura: Ego Obscura - Mishima

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