聴こえなかった音を受け止める「耳」
映画の中で何回か繰り返された調子っぱずれな低い金管楽器の音。共鳴していなくても遠くから聴こえるホルンとトロンボーンの響きはとても美しくせつない。主役にはなりにくいふたつの楽器の声ともいえるサウンドは、私たちが意識しなくとも常に鳴り響いている社会の通奏低音であり、映画『怪物』を象徴するマテリアルだ。
『怪物』はLGBTQを取り上げようとしたのだろうか。確かにクィアの部分は描かれているが、それはモチーフとしてであり、映画の主題ではない。LGBTQを中心に考えるのは時代に接続しすぎであり、危険でもある。『怪物』の中心を成すのは、これからどう流れていくかがまだわからない少年期ならではの、普遍的な心の揺れ動きだろう。きっとLGBTQ当事者にとっては、自らの経験をふまえて共感する部分も多いだろう。私の場合、一般的にいわれるようなLGBTQの当事者ではないが、かつて少年ではあった。その記憶を重ね合わせて考えてみても、かなり共感する部分は多い。つまり、この映画はLGBTQを超えて全ての人にとって共感できる普遍性を持つ映画といえる。
友人関係にある少年同士の結びつきは非常に強い。大抵の場合は少年とはいえ、親の影響を受け、男は男らしくという既成概念の中に徐々に押し込められていく。それでも、性行為には及ばなくても、特に親しい同性の友人と精神的な一線を越えることはよくあることのような気もする。多くの子どもたちは、再び常識の枠内に戻っていくが、そうでない子も当然いるはずだ。少年期の結びつきは、自分が住む社会がまだ狭い分だけ、より深まる方向に進みやすい。ある意味、大人になって出会う異性の恋人よりも精神的な無意識下の一体性は深いことだってありえる。
多くの大人、そしてLGBTQの大人の多くもそうかもしれないが、自分に近いジェンダー観を持つパートナーを選択する傾向が強い。ところが、子どもはそうではない。子どもは性別ではなく人として好きな相手に親近感を覚える。その点において、大人よりも純粋なのだ。異性愛であることが自然なのではない。異性愛者になるように飼い慣らされているだけで、ヘテロセクシュアルとしてこの世に生まれ落ちた人間なんて一人もいない。子どもが意外に下ネタ好きなことや、同性同士で体をよく触ることも本能的にまだ異性愛に縛られていないことが原因だろう。映画の中のクラスメートによるイジメさえ、もしかしたら心の中に大きく広がる理解不能な感覚に対する不安から逃れようとする防衛反応なのかもしれない。
廃棄された列車の車内で、依里が湊に急接近するシーンで、どうしてよいのかがわからず、思わず相手を押しのけてしまった行動原因は、LGBTQだからとはいいにくい。ただ経験が足りなかったことが原因で、相手が異性であっても湊は同じ行動をとっただろう。そして、相手を押しのけてしまった経験をしたことで、依里への想いが行動とは裏腹に深まっていった。こうした経験は同性愛、異性愛に関わらず、幼い頃、だれもの記憶の片隅に残っているのではないか。
人は人を愛するのであって、異性を愛するのではない。映画のラストシーンは希望を感じさせるものだったが、現実の日本社会は少し違う。映画の前半でデフォルメされていた集団としての教師のような人々と子どもたちは日々対峙しなければならない。私が関係する大学においても問題はできる避けておこうという組織としての気質は感じる。モラル的には劣っていても、数十年前の学校の方が、あからさまに問題を避ける行動をたとえ見栄だけでもとることはなかった。
こんな日本でも海外の影響もあり、社会はどんどん進化している。取り残されているのは、主に公的機関を中心とする組織と彼らが生み出す常識の数々だ。かつての成功体験にすがっていては大衆との格差は広がるばかりである。ある程度の変化は受け入れないと、前進への道は閉ざされる。国家としての成功体験を知らない子どもたちにとって、保守的な大人たちが何を守ろうとしているのか理解できるだろうか。また、大人は本当に守るべきものを守っているのだろうか。
「作曲された音が音楽ではなく、聴いている耳が音楽にする」。音楽の概念を飛躍的に拡張したジョン・ケージの言葉だ。映画の中で響いていたあの調子っぱずれに聴こえる社会の通奏低音は、時代とともに変化する。多くの人は今までその音の存在にさえ気がつかなかった。あの美しい音を聞き逃していたのだ。もし、それぞれが「聴く耳」を持つことができれば、みんなの心はもっと美しい音で満たされることだろう。芸術は、LGBTQだけではなく、あらゆる偏見に対しても解毒剤の役目を果たすのだ。
監督:是枝裕和
脚本:坂元裕二
出演:安藤サクラ、永山瑛太、黒川想矢、柊木陽太他
2023年