コメディの天才が撮ったシャレにならない地獄の啓示のようなブラック・ユーモア
あの笑い方、過去に見た記憶がある。
あの人はおそらく脳に損傷を受けてはいなかったと思うが、誰も面白いことを言っていないのに、大勢の中でただ一人ピエロのような顔でニタニタ笑っていた。きっと笑うことで、周りとの摩擦をできるだけ起こさないようにしたかったのだろう。(ほとんどの場合、その試みは完全に裏目に出ていたが…)
でも同時にその人は、閉鎖的な空間ではかなり辛辣なタイプだった。怒りにも近い感情をよくぶちまけていた。
ホアキン・フェニックス演じるアーサー(ジョーカー)は、何らかのストレスがかかるとシリアスな状況でもつい大声で笑ってしまう。こんな状態だと笑うことに対してトラウマを持ちそうだが、本人はコメディアンを目指すほど、笑いに飢えていた。そして高い理想も持ち合わせていた。
ただ耐えられないのは、理想と現実のギャップであり、その事実を突きつけられた瞬間、彼の怒りは爆発する。
時代や街の設定が似ているためか、怒りの捉え方がマーティン・スコセッシ監督の『タクシー・ドライバー』と比較する声もある。しかしロバート・デ・ニーロが演じたトラヴィスに憧れる男は多いだろうが、『ジョーカー』のアーサーになりたい人間はほとんどいないだろう。(ちなみに『ジョーカー』にはロバート・デ・ニーロも重要な役で出ている)
この文章を書きながら、冒頭の人物は自分のことで、しかもジョーカーの怒りも共感できる自分は、もしかしたらジョーカーよりもタチが悪いのではないかと寒気がしてきた。
昔見た『バットマン』は、完全に一種のファンタジーであり、現実世界とはかけ離れたものだった。闇の世界に踏み込んだ『ダークナイト』でさえ、スーパーパワーがある種の救いとなり、架空の話として楽しむことができた。しかし『ジョーカー』は違う。「笑い」のシーンが満載なのに、戦慄するのだ。同じゴッサムシティの設定ではあるのに、架空の話だとは思えない。バットモービル等の飛び道具は何も登場せず、あたりまえの世界だけで物語は進行する。
主役であるはずのジョーカーも、実は誰がジョーカーなのかは、あまりはっきり描かれていない。アーサーは自ら名乗ったのではなく、そう呼ばれたからただ受け入れただけだ。アーサーの死をイメージさせるシーンは、キリストの復活をイメージさせる。一度『ジョーカー』は死に、大衆の要求により、再び象徴として現生に引きずり戻されたようにも受け取れる。(パトカーの上のアーサーは、十字架にかけられたキリストのようでもあった)
『ジョーカー』的な要素はどの時代にも潜んでいる。1980年前後なら、映画のように怒りを爆発させるためには特殊な舞台が必要だっただろう。しかし、今ならSNSで誰でもジョーカーになれる。その意味でもこの映画はファンタジーではなく、予言の映画であり、近い将来『ジョーカー』的な存在は、現実世界に必ず現れるだろう。
コメディの天才トッド・フィリップスが撮ったシャレにならない地獄の啓示ようなブラック・ユーモアがこの『ジョーカー』。間違いなく傑作として映画史には残るだろうが、このユーモアは全く笑えない。
監督:トッド・フィリップス
出演:ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ、フランセス・コンロイ他
2019年