2024年から観た『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』採点表
漠然と「あなたは何が好きですか?」と問われれば、きっと「音楽です」と答える。子どもの頃からずっと音楽が好きで、特にロックやブラック・ミュージックを中心に聞いてきた。この世界には自分が好きなだけでも、リトル・リチャードやルー・リード、最近でもアノーニ等、ゲイのアーティストは多数存在する。しかし、不思議なことに、一般社会では差別の激しかった時代から、音楽界では彼らのことを「ゲイの」ミュージシャンと考える人はほとんどいなかった。もちろん、日常生活では差別を受けていただろうが、こと音楽に関しては、正当な評価を受けてきた。ゲイであることを気にするファンなんて聞いたこともないぐらいだ(時代的にメディアにおいてはエルトン・ジョンやフレディ・マーキュリーのようなアーティストを茶化す風潮はあったが…)。そんな時代に観たのが『Hedwig and the Angry Inch(邦題:ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ)』だった。ゲイ(トランスジェンダー)が主人公の話であることは知っていたが、純粋にロックを描いた映画として感動したことを覚えている。今回はこの自らゲイであることを公表しているジョン・キャメロン・ミッチェル監督の代表作を、あえて2024年のLGBTQモラル観(および映画観)を持って振り返ってみようと思う。2001年に当事者が制作した映画を2024年に非当事者が評価を試みる。
まずは冒頭の場末のライヴシーン。この高校の文化祭かと思うほどの切ないB級ロックのグルーヴ感はなかなか出せるものではない。安っぽいタイトルバックも曲に相俟って最高。場所はライヴハウスではなく、カンザス・シティの“Bilgewater’s Restaurant”という架空のチェーン・レストラン。いかにも保守的で年配の方も多い客は彼らの演奏を期待していない。そもそもこんなイベントがあることさえ知らなかったはずだ。「船の底に溜まった廃油と海水の混合物」を意味する店名で食べるシーフード。歌詞の中で表現されるヘドウィグの人生と客の人生の乖離。壁によってふたつに隔てられていたベルリン出身であること。これらはのちに語られるゼウスの神話とリンクしているのだろう。映画のトーンを決定づけた本シーンは文句のつけようがなく100点満点。
この映画で一番気掛かりとなるシーンは、幼少期の描写だ。ここで「アメリカ兵のパパ」との間の性描写が暗示される。このシーンを挿入すると、ゲイとは何らかの原因があって起きる精神的な病のようなものだという誤解を与えてしまう。それを挽回するのがビルジウォーター・シカゴ店で演奏される“The Origin of Love”。この曲は映画全体を象徴する内容であり、ロックと文学と映画がこれほど自然に融合した曲も珍しい。プラトンの『饗宴』を引用した語りで十分ゲイについての考えは理解できるので、父親との性のシーンはやはり不要だろう。もしかするとジョン・キャメロン・ミッチェルの父親は軍人だったので、関係者等ある程度の実体験がベースになっているのかもしれないが、それにしても神話を引用するぐらいなのだから、具体的体験よりも抽象化した方がストーリーに深みが出る。よって父親との性描写のシーンはありきたり過ぎて15点、その後の“The Origin of Love”は比喩として素晴らしいので100点。
幼少期におもちゃをいっぱい詰めたオーブンの中で米軍のラジオを聞いていたというシーンでは、ホモセクシャル系のロック・シンガーとしてルー・リード、イギー・ポップ、デヴィッド・ボウイ等の影響をあげていた。私は意識していなかったが、当事者はやはり意識して音楽を聞いていることをここで知らされる。東ベルリンに住む身なら、米国とロックは自由の象徴。マイノリティにとってのロール・モデルがいかに大事かということか。時代を行き来する映像のユニークさもあり本シーンは90点。
1988年、米軍人ルーサーとの出会いと結婚、そのために性転換手術を受けるという場面の評価は分かれるところかもしれない。権力に拒否反応を示していたハンセルが結局は米国軍人という権力に阿り、その代償として「アングリー・インチ」が残ってしまう。ここは悲しみと可笑しみが同時に訪れるいいシーンではあるが、気持ち的にはスッキリしない。渡米後、結果としてルーサーは別の若い男を見つけ、ハンセルからヘドウィグとなった彼女を棄てて出て行く。この頃、故郷ベルリンでは壁が崩壊し自由が訪れる。ヘドウィクは途方に暮れるが、ルーサーを追いかけることをせず、バンドメンバーの支えもあって米国でロックを術として生きる決意をする。大きな人生の転機に、無謀ではあるが少なくとも生きるという選択をした彼女の決断は正解だろう。ルーサーのことを非難したくなるところだが、男女の恋愛でもよくあることであり、このシーンは60点。ここにバンドメンバーの優しさを5点分加味して65点。
この後トミー・ノーシスの件になって物語は加速する。しかしながら、ベビーシッターとして雇われた家で未成年のトミーと出会い、いきなり性的な悪戯をするシーンは、2024年的には完全にアウト。未成年との性愛が映画の中心を成すテーマなら構わないが、本作は違う。ロック映画だから法を破ってもユーモアを認め大目に見たいところだが、今なら別の表現にするべきだろう。少年への性犯罪を堂々と認めれば、カルト映画としての人気は得ても、現在の『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』と同じ評価を得ることは難しい。韓国人軍曹の妻をリズム・セクションにしてバンドを結成するシーンも、明らかに白人とアジア人の対比を笑いのネタにしているので、人種的にもジェンダー的にもダメだ(ジョン・キャメロン・ミッチェルが子どもの頃、ドイツの駐屯地では本当に韓国人女性がたくさん働いていたらしいが)。この一連のシーンはとても面白くもあるが、時代にはそぐわないので、50点としておこう。
私がトミーを応援したくなるのは、少年時代の彼の存在なしにはヘドウィグの才能は開花していなかったと推測されるからだ。自分が失った純粋さをトミーの瞳に感じて、ヘドウィグは家庭教師のようにトミーに全てを注ぎ、自らの人生も地道に歩み始める。トミーは最高の教師を得て、師の思惑以上の成長を見せた。これはトミーの才能と言わざるを得ないだろう。子どもは周囲の人間すべてを利用して成長する。そしてこの映画最大の問題シーン、トミーが「アングリー・インチ」に触れる場面だ。これもヘドウィグの微妙な感情はもちろん理解できるが、魅力的で才能溢れるかなり年上の女性の秘密にいきなり触れてしまえば、動揺し、一時的に拒否反応を示すのは当たり前だろう。大人のヘドウィグは、時間は十分あったのだから、性的な関係を持つ前に説明しておくべきだった。しかし、この突然の別れのシーンは青年の繊細さと、大人も同時に繊細であり、抱える苦悩も多いことが示されている。年の離れた両者がともに繊細さゆえに衝突する場面は他にあまり例を見ないストーリーである。よって人としてはもっとできることはあっただろうが、映画としては文句のつけようもなく90点をあげたい。
そしてニューヨークでの再会。トミーの本音を知ることになるが、再び、それぞれの道を歩むことになる。ここでついにふたりは、立場は大きく異なるが、精神的に同じ高みに立っていることを感じる。
ヘドウィグのキャラクターは、お喋りな俳優ジョン・キャメロン・ミッチェルと、音楽家のスティーブン・トラスクが共同で生んだ架空のドラァグ・クイーンが元になっている。まずはゲイが集まるクラブで実際に演奏するライブバンドとして試し、その後、舞台化され評判を呼び、映画化にこぎつけた。そのため、時代的な典型的トランスジェンダーの要素がヘドウィグに込められているのは避けようがなかった。ところが、ヘドウィグ以外の登場人物の精神状態をみてみると、時代性を感じるものはほとんどいない。ヘドウィグにはジョン・キャメロン・ミッチェルの役者としてのサービス精神が、その他の登場人物には彼の優しい視点が込められているのだろう。
さて2024年の常識を鑑みた『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の採点は、作品全体としては75点が妥当な線だろう。今の常識で考えるといくつかの改善点があるのは事実だ。しかし、一映画ファンとしては、この作品には100点以上の得点をあげたい。個人的意見としては、作品と呼ばれるものは、たとえ社会に悪影響を与えようが、道徳を価値基準にしてはいけない。ときには地獄を見せることも必要なのだ。LGBTQの権利はもちろん大切だ。しかし、モラルとして理想的なストーリー展開の映画ばかりが発表される世の中は果たして良い社会だろうか。プラトンの引用ではないが、性に多様性があるように、一人の人間の中にも善と悪が併存しているのが当然の状態である。映画に限らず、芸術に関係する作品に悪の部分が含まれていないとすれば、きっとそれはどこかに嘘が隠されているはずだ。
監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル
出演:ジョン・キャメロン・ミッチェル、スティーブン・トラスク他
2001年